セ イ ヒ ツ ノ ミ ナ モ




 『ねぇ、私は貴方のことが好きよ』
 そう静かに囁いて、彼女はおれに指先で触れた。
 『私のコトも、此の言葉も、信じれなくたって良いわ。ただ、此れだけは覚えておいて。貴方はこんな寂しいトコロで凍えているのは似合わない。貴方は、愛し、愛されるに相応しい人間なのよ』
 告げるアイツの声は優しく甘く、何処までも甘美なモノだった。触れる指先は温かくて気持ちが良くて、此れに応えてしまえば、幸福が得られるだろうことを予期させた。だから、一層怖くなった。

 震える腕で無理矢理に閉めたドアは、昨年つけた傷のせいか、イヤな音を出した。部屋を見回せば、数時間前に出た時と何ら変わりのない、数年間愛用している自分の部屋が広がっている。アイツに「汚いなぁ」と非難を受けた、少し暗い部屋。
 おれはちゃんと、平常心でフリが出来ていただろうか?───出来た筈だ、きっと。シゴト柄、おれは演技には長けているのだから。

 アイツに逢った時から、身体の震えが止まらない。数年振りに出逢った女は、おれの知らない数年間があの女に齎したものによって、以前とは違う雰囲気を醸し出している。
 『久し振りね』
 そう告げる声も、優しく微笑む瞳も。逢わない数年間のあいだに、見事なまでに様変わりしていた。
 『元気にしてた?見た感じ、変わりはないようだけど』
 口調に変わりはないけれど、伝える声は以前よりも優しい。
 『そういうおまえは、なんだかエラく変わったな』
 動揺を隠しながら、無理矢理に喉から引っ張りだした言葉。声に焦りを出さぬよう、細心の注意を払いながら。
 『そうかな?自分では判らないけど、黒崎がそう言うなら、そうかも知れないね』
 軽く小首をかしげながら、女は笑った。現在は遠くある此の馬鹿みたいに暖かな笑顔は、確かに数年前にはおれの隣にあったのだ。───此れを遠ざけたのは、他の誰でもない、おれだ。
 アイツはおれにとって危険な侵入者だった。暗い湿った谷底で、まるで静謐の水面みたいに生き続けていた日々。其処へなんの予兆の無くやってきては、此の女は水面を揺らし続けた。幾度となく彼女を拒絶しても、素知らぬ顔をしてはおれを掻き乱し続けた。コイツはとてつもなく喧しく、酷く乱暴で、たまらなく迷惑で、とても温かだった。
 そうして、おれが捨てたモノまで渡そうとしてきた。だから、怖くなった。きっと、また其れに触れてしまったら、おれは戻れなくなってしまう。此の暗い谷底で、其れに触れてしまったら、おれは壊れてしまう。
 だから、おれはソレとアイツを遠くへ追いやったのだ。──もう二度と、此処へ降りてこないように。
 そして、女はおれから遠く離れていった。おれの望み通りに。たとえ、同じ場所に立っていたとしても、アイツはもうおれと同じ処には居られない。もう二度と壊せないカベが、おれたちを隔てている。


 だというのに、何故か身体の震えが止まらない。叫びだしたい程の衝動が身体全体に走り出す。身体が、何かを求めている。


 もう一度部屋を見渡した後、両手で顔を覆い、身体の震えを止めることに全意識を集中させた。
 何をいまさら戸惑うことがある?今更出逢ったところで、アイツはおれにとって過去の存在でしかない。アイツは、もうおれとは関係の無い人間だ。──そうだろう?
 震えが完全に停止させた瞬間、携帯電話が鳴った。
 「もしもし?」
 「クロ、仕事だ。」
 声の主を判断したとき、おれは頭のスイッチを切り替えてオヤジの声に耳を澄ませた。おれの居場所は、此処だ。此の光なんかが入って来れない程に深い、漆黒の谷底だ。
 アイツはもう二度と、此処には来れない。
 おれは、アイツの知らない暗闇の中を歩き続けている。アイツは、おれの知らない光の中を歩き続けている。互いに正反対の道を行くおれたちが、交わることなど二度と、無い。


 『私ね、去年の冬に結婚したの』
 女は心底幸せそうに告げた。腹部あたりを両手でふわりと包みながら『あと数ヶ月後には、子供も生まれるわ』と続けた。
 『そりゃあ、おめでとうさん』
 強張りそうな顔を隠そうと、俺は背を向けた。『悪ィけど、俺シゴトで急いでんだわ。じゃあな』
 『待って、黒崎』
 走り出そうとする俺をアイツは引き止めた。
 『ねぇ、私が前に言ったこと覚えてる?』と、まるで祈るような声で言った。
 『貴方に此れだけは覚えておいてねって言ったこと』
 『馬鹿じゃねェの?おまえ』
 女が目を見開いたことは、振り向かないでも解った。
 『おまえがおれのアパートに住んでたのなんてもう何年前の話だよ?んな昔のこと、覚えてるわけねェだろ?』
 じゃあな、とおれはアイツから離れていく。女はもう、おれを引き止めようとはしなかった。





 此れで良い。此れで良かったんだ。おれも、おまえも。
 ───なぁ、そうだろう?









2style.net