エ レ ジ ー
そいつは突然やってきた。奇妙な黄色い雲に乗って。鍛えられた身体に道着を纏い、髪の毛と同じく漆黒色の瞳がまっすぐにあたしを捕らえている。その瞳には何故か安堵と親しみが込められている。どうして初対面のあたしに?到底理解が出来なかった。
「やっと見つけたぞ、チチ」
───あたしは、そんな名前じゃない。
出会ってから、どういう訳か男はずっとあたしの側に居続けている。なにが目的なのか、と尋ねると彼は決まって言う。
「だって、夫婦はずっと一緒に居るもんだろ?おめぇ、ずっとそう言ってたじゃねぇか」
意味が分からないわ。そもそも、あたしはまだ誰とも結婚していない。
何度も追い返そうとした。けれども男は決まって眉を寄せて、あたしに非難を浴びせる。「なんでオラだけ帰ぇらそうとするんだよ?おめぇも一緒に帰ぇろうぜ。なんでおめぇはこんなとこ住んでんだよ?都会は嫌ぇだって言ってたじゃねぇか。なぁ、チチ、パオズ山へ帰ぇろう」
あたしはパオズ山なんて行ったことなどないわよ、と返すと酷く哀しそうな、不思議そうな顔をした。「どうしてそんなこと言うんだよ?あそこにゃ、オラたちの家があるじゃねぇか」
此の男はどうやら己と妻とあたしを混同しているようだった。
チチという名の彼の妻。あたしはもちろん一度も在ったことが無い、此の男の妻。あたしは、彼女じゃない。
其の女性にあたしは似ているんだろうか?
似ているのなら、いったい何所が似ているのだろう?カオだろうか?それとも、声色かしら?それとも──、
「料理の味が変わったな」
向かい合わせのテーブルで、(ある意味強引に)共に夕食をとっている男が少し眉を寄せている。「前は、もっと味が違った」
「口に合わない?」と、尋ねると男は「んなことねぇさ」と笑った。
「だって、チチが作ってくれてる飯だろ?おめぇが作ってんモンをオラが嫌がるわけねぇよ」
もし此れが戯曲なのだとしたら。
此れは喜劇かしら?それとも、悲劇なのかしら?どちらにしても、なんて滑稽でなんて酷いストーリーだろう。
互いの呼吸が舞うシーツの上。あたしは静かに涙を流している。すると、男が再び不思議そうにこちらを伺う。
「チチ、どうした?なんで泣いてんだ、おめぇ?」
あぁ、きっと”チチ”はこんな時に泣かなかったのね。でも、あたしは”チチ”じゃないの。どんなに姿が似ていようが、どんなに声色が似ていようが、あたしはあんたの妻じゃない。”チチ”とは別の意思を持った生命体なのよ。あたしは、”あたし”なの。
あたしの涙は止まらない。頬をつたり、シーツにシミを作っている。
「なぁ、チチ。泣かねぇでくれよ」
困ったように男はあたしの身体を抱きしめる。熱く、たくましい腕。きっと幾度となく”チチ”は此の男に愛されたのだろう。でも、それは此の男の妻であって、あたしじゃない。
「なぁ、チチ。泣かねぇでくれ」
男は、なおも告げる。あたしを通して見つめる最愛のヒトへの言葉。あたしへではなく、自分の妻へ。”チチ”へ、彼は言葉をかける。
「なぁ、チチ」
───あたしは、そんな名前じゃない。
男は”チチ”を求め続けている。
けれど、どんなに姿形が酷似していようと、あたしは”あんたの妻”じゃない。
あたしは”チチ”にはなれない、なれないのよ。
それでも、あたしは、
”あたし”は、あんたのことが好きなのに。
───ねぇ、悟空さ。
おらが、たとえ目ぇ醒さなくなっちまっても、哀しまねぇでな?
これは、お別れじゃねぇんだから。
おらは、また悟空さに逢いにくるだよ。
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