最 愛
夫を送り出してから数時間、チチはただベッドに横になることしか出来なかった。だってもう、気力も体力も何もかもを全て使い果たしてしまっていた。死が待ち構えているだろう場所へ、それでも、まるで普段の日常みたいに愛する人を送り出したのだから。
ぼう、としたまま見上げた天井には、見知らぬシミがあった。色や形状からして此の家を建ててから何らかの原因で徐々に派生したものだろう。あぁこの家も建ててから約十年が立つもんなぁ、とまるで走馬灯のように昔を思い出してしまう。そんな己にチチは腹が立った。
本当は強がっている。頑なに、強情なまでに、意地を張っている。恐怖に脅える身体を無理矢理に震え立たせながら。
夫はまるで夢のような人だと思う。少しいい加減なところもあるけれど、人に優しく、弱気を助け、悪に染まらない強さを持っている。まるで『正義』という概念の固まりのような人。だから、幾人もの人々が彼に惹き付けられ、彼を愛するようになる。彼女だってその中の一人だ。ただ、少しだけチチが幸運であったのは、その男の妻になれたことだ。
日々は常に幸せに通り過ぎて行った。愛する人の妻になれて、子を成し、愛のある生活を送り続けていた。もちろん喧嘩だってした。互いの意見をぶつけあっては、時には傷つけて非難し、そして慰め合った。
まるで、恐いものなんて無かった。存在する筈も無かった、だって全ては夢のような夫が彼女に与えてくれた、夢のような幸せだったから。けれども、夢はやがて終わりを迎えてしまう。
泣けば良かった。(自己中心的な)我が儘を言えば良かった。困らせれば良かった。そうすれば、そうすれば、そうすれば────。
すまん、と耳元で呟かれた言葉が痛く彼女の胸に食い込んだ。なにを憶って夫が其の言葉を口にしているのか、チチには皆目検討がつかなかったけれど、追求する気にはならなかった。ただ、どうしようもなく溢れて止まらない涙を見られたくなくて、太い首に顔を埋めた。幾度も口付けを交わし合っては、互いの肌に触れた。まるで全てを記憶してしまおうとするように、指で何度も互いの形を辿った。
悟空が濡れそぼった彼女自身に入り込もうとしてパッケージを破いたとき、静かに首を振って其れを拒んだ。少し驚いた顔をしたけれど、彼は何も言わずに、ただ其れに応じてくれた。
夫の性器が胎内に侵入したことによって派生した圧力と熱。その両方に翻弄されて、たまらずチチは声を上げ始める。悟空の額から汗が滑り、頬から顎へと伝って彼女の腹へと零れ落ちた。
彼女が望んでいること。彼女が本当に願う、たったひとつのこと。
「嫁にもらいにきでくれな」と、言ったのは幼いあの日。陽だまりのような笑顔に彼女はすぐに恋をした。まだ未成熟な少年であったけれど、夫は「もらいにくるぞ」と約束してくれた。それが嬉しくて彼女は毎日が幸せだった。毎日が確かに光で満ちていた。思えば、あの時から今もずっと夫のことを憶っている。あの時からずっと幸せだった。ひとを愛する、という喜びを知ったから。思えば、あの時から今までずっと、夫は彼女を幸せにしてくれていたのだ。
コチコチコチ、と時刻を告げ続ける時計の音がやけに喧しい。けれども身体を起こす為の力が無く、チチは黙ったままベッドの上に伏している。彼女しか居ない家は、奇妙なまでの静寂を宿していた。
「死なねぇでけろ」
それが夫を見送る彼女が一番に発言した言葉であり、願いだった。それに対し、夫はただ笑って「おう」と応えてくれた。
───ねぇ、駄目だよ。
───ねぇ、離れたくねぇだよ。
其の言葉が、どうしても口から零れてこなかった。どうしても、言えなかった。
夫が此の家を後にして数時間。まるで時間の止まったようなベッドの上。
あの指が、あの舌が、あの性器が触れた身体を両腕で抱いたまま、溢れ出す涙を止められずにいた。胎内に潜む、再び噛み合ったも知れない細胞の存在を忘れて。
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