Act.2-3
俺は暁のモデルとしての活躍は知らない。
まったく知らないわけではないが、彼女の行動のひとつひとつを追いかけたことはないし、どんなショーに出たのか、あるいは、どんなジャンルのモデルをしていたのかもよくわからない。
ただ一つ確かなのは、俺の周囲の友人たちにも広く名を知られているほど、暁がそれなりに有名なモデルだったということだった。
「はい」
英語の授業が終わり、講師にいくつか質問をして教室──ありがたいことに、英語の授業はいつも小教室でやる──を出ると、待ち伏せるようにひとりの女が廊下にいた。
いや、待ち伏せるように、ではない。俺は実際待ち伏せされていたのだ。
彼女、曽根文美は、このところ毎日のように、俺に手紙を持ってくる。
「……はいって、何?」
俺は心底うざったく、差しだされた封筒を手で押しのけると彼女の脇をすりぬけた。こういう人間は嫌いだ。挨拶もしないで自分の欲望ばかり押し付けてくる礼儀知らず。
「何度も頼んでるんだからわかるでしょ! 暁さんへのお手紙だよ、ねえ、渡してくれるだけでいいの!」
曽根はなかば叫びながら追いかけてくる。その細く、金属的な声は俺の神経に触った。ますますイライラとしてくる。廊下のつきあたりの階段を下りながら、ミュージックプレイヤーを取りだした。
「ねえってば、三井君」
「あー、うっせえな。だから、できないんだって」
「なんで?」
「なんでも。姉貴、そういうの好きじゃないから」
嘘ではなかった。
実際、暁はファンレターというものを好まない。モデルをしていた当時も、辞めたあとの今でも、ファッション雑誌の編集部を通してまいにち大量の手紙がうちには届けられるのだが、暁はそれを読まなかった。受け取ることは受け取るのだが、まったく手を触れないで居るのだ。
なぜ、と一度問うた時には、陰鬱そうに答えていた。
──気が重いの。
嬉しいよりずっと、怖くなるの。
ねえ、ハル。あなたならわかるかしら。
知らない人に期待されるって、とても不思議で、恐ろしいことよ。
「迷惑かもしれないけど、でも、どうしてもお手紙読んでほしいの! あたし、暁さんには本当に憧れてて、元気もらってたから。」
元気はもらうものじゃない、と、俺は冷酷に考えた。
暁を目にした人間が元気になろうがなるまいが、それはその人自身の問題であって暁の問題じゃあない。
とにかく、押し付けないでくれ、と猛烈に思った。
暁に、暁が望まないもの全てを、押し付けるのはやめてくれ。
「ねえ、お願い、三井くん!」
「──うるさい。」
俺は、ついに、立ち止って曽根を見た。我ながら攻撃的な眼をしていたと思う。
曽根は、びくりと身を震わせて、口を閉じた。階段の影は暗くて、その表情がよく見えないことが俺は嬉しかった。
「悪いけどほんとに迷惑だから。暁への手紙なら、前に暁が載ってた雑誌の編集部にでも送ってよ。そしたら無理やりうちに届くから。」
言い捨てて、今度こそ踵を返した。スニーカーの足もとが驚くほど速く地面を蹴って進んでいく。自分でも意外だが、俺はどうやら本気で怒っているらしかった。
曽根は追いかけてこなかった。
食堂に行くつもりだったのだが、どうしても苛々がおさまらず、俺はキャンパスの端にある大学記念講堂に足を向けた。
木造りで、学内に著名人が招かれた時や、クリスマスなどのイベントの際にのみ開放される、こじんまりとした建てものだ。
ピアノが一台置かれていて、希望すれば講堂の鍵を借りて弾くこともできる。
俺は鍵を借りて講堂の扉を開けた。
大学は、あまり好きじゃない。いつもどこかに人がいて、世界がとてもうるさくなるから。
ピアノの前に座ったのとほぼ同時に、携帯が震えた。ポケットから取り出して開くと、米倉からの電話だった。出たくなかったので携帯をカバンの中に押し込むと、俺は、鍵盤の蓋を開いた。
何を弾こうか。
考えるより先に、手は音楽を紡ぎ出していた。
空間に流れ始めた旋律を耳でたどると、それはクラプトンだった。
Tears in heaven.
***
授業が終わるとバイトに出勤し、家に帰って夕飯を食べた。
誰もいなかったので、居間のソファでコーヒーを飲みながら何をするでもなくごろごろしていると、夜もだいぶ更けた頃に暁が帰って来た。
「ただいまあ」
玄関が開かれると同時に、酔った甘いトーンの声がひびく。
こりゃ飲んでるな、と俺が眉をしかめたところ、予想通り薔薇色の頬をした暁がドアから入って来た。
「あー、ハル、お帰りー。ただいまー」
「……いや、帰ってきたのは暁でしょ。酔ってんな?」
俺が身を起こしながら言うと、暁は顔の前でひらひらと片手を振った。ほがらかに笑って、歌うように喋る。
「少しだけ。でもね、案外酔ってないのよ。かなでと久しぶりに会って、楽しくって。あ、コーヒーあたしも飲みたい」
「はいはい。座って待っててよ」
ふらふら体が前後に揺れている暁をソファに座らせて、俺はキッチンにコーヒーを作りに立った。暁の晩酌の相手がかなでさんだったということに少なからず安堵しながら、ミルメーカーの蓋をあける。
かなでさんというのは暁の友人で、同時に、暁が待ち合わせをすることのできる数少ない人物のひとりだった。
両親が既に鬼籍のひとで、親戚もいない、文字通りの天涯孤独。
はじめて会った時、蓮の花のようなひとだと思った。泥の中から育って咲くのに、自らは決して泥に汚れず、美しく、うつくしく咲く。
彼女の歩き方、愛おしげにチェロを抱いて奏でる様子、降りかかる運命の全てを、避けもせずに見上げているその横顔。
すべてが、凄烈に清らかで、そしてとても、とても悲しい。
暁がかなでさんを好きな理由はなんとなくわかる。
彼女は──彼女も、自分自身と戦っていく人生を選んでいるからだ。
「ねー、ハル。かなで、結婚したんだって! 知ってた?」
コーヒーを手に居間へ戻ると、暁がころころ笑いながらブレスレットを照明の光に透かして眺めていた。金色の、極細の鎖。
それは俺が彼女にあげたものだった。
白く細い手首を、掴みとって攫ってしまいたくなる。
「……へえ。知らなかった」
答えながら暁の横に座る。彼女は俺を見て、ありがとー、とコーヒーカップを受け取った。薄くやわらかなくちびるを押し当てて、愉快そうにその黒い苦い液体を口にする。そしてまた喋り出した。
「同じ会社のね、先輩だって。かなでが同僚とだけは結婚するなんて思わなかったな、あたし。だって彼女、達観してるっていうか、世の中を醒めた眼で見てるじゃない、すごく。へたなモデルよりずっと綺麗だし、外人とでもいっしょに暮らし始めるかって思ってたんだけどなあ。」
俺は暁の、まるで意味を持たずに、ひたすらこぼれおちる言葉の奔流を聴いていた。まるで蛇口をひねり忘れた水道のようだ。暁は無口だけれど、いつもこれだけの言葉を胸には散らばしている。だが、そのうちの一割も口にはしていないのだ、と思った。
「かなで、幸せになれるといいね。」
幸せ?
俺はだまって暁をみた。
「今までの分を取り返す位に、幸せになってほしいなあ。」
暁にとっての幸せとは、一体どんなものなのだろうか。
彼女がいま思い描いているものの、色を知りたい。形を知りたい。
ああ、本当に、知りたくてたまらないと思った。
「やっぱり独りはかなしすぎるもの。かなでもずっと、家族がいなかったし──あっ。」
──かなで『も』?
いきなり、突如として恐ろしく静かになった。
暁が自分の口許を手で覆って、黙りこんでしまったのだ。
コチコチと時計が深夜に向けて時をきざんでゆく音だけが、しばし辺りを支配した。
俺は、時間にすればほんの数秒のそのまたたきの間、どうしようかなと考えを巡らせていた。
暁はいま、失言をした。
それは彼女がうちに引き取られて以来ずっと、彼女自身が厳格にまもってきた掟の内のひとつで、自分がもらい子だとか、養女だからとか、そういう弱音や甘えを一切口にはしないということだった。俺と父さんを、傷つけないため。そして自分自身を卑しめないため。
むろん暁自身がそんな掟の存在を俺や父に話すわけはないが、俺はずっと彼女の隣りで生きてきたから、そういうルールみたいなものがあることは、いつからか何となくわかっていた。
さあ、どうしようかな。
怒ってもいい。おもいきり声を荒げて、暁を傷つけるんだ。そうすれば俺のこの愚かな独占欲も、すこしは満たされるかもしれない。
それともキスしてしまおうか。聴かなかったことにしてやるよと、卑怯な理由を掲げながら、いくらでも。
「……あきら」
やがて俺が名を呼んだとき、暁の肩は大きく揺れた。怯えているのだ。俺はわかった。
そしてその事がわかった瞬間、身を乗り出していた。