氷帝学園にはいかにも私立といった、華やかな雰囲気がある。 制服も明るめの色で、校舎も綺麗だ。 笑いながら学校を離れて行く生徒達を見つめながら、手塚はそう思った。 黒い学生服の手塚だけが、その景色の中で無彩色だった。通り過ぎる生徒達の何人かが、手塚の方をチラチラと見て、何かを囁いてゆく。
手塚は、跡部に傘を返しに来たのだ。
返しに来いと言われて、もちろん言われなくても返すつもりではあったが、よく考えれば、手塚は跡部の家など知らない。 もうお互いに引退しているから、試合で会う事もない。 だから、学校に来る以外に方法が浮かばなかった。
どうしよう。
手塚は、彼にしては珍しく逡巡した。 他校生の自分が学園内に入るという事に対する遠慮も、確かにある。 だが、迷う理由はそれだけではなかった。
わざわざ学校まで返しに来て、跡部は迷惑に思わないだろうか。 うっとおしいやつだと、思われないだろうか。
なぜそんな事が気になるのか、よくわからないし、そんな自分が嫌になったが、それでもやはり門をくぐることはできず、手塚はいつまでもぐずぐずとその場に留まっていた。
「お、なんやホンマに手塚がおるわ」
急に、背後から、どこかで聞いた事のある声が聞こえて、手塚は振り返った。
「…忍足?」 「天下の手塚が俺の名前覚えてくれてるなんて、光栄やなあ」
からかうようにそう言って近付いて来たのは、忍足だった。
「一年が、門のトコに手塚がおるーゆうて騒いでてな。ホントかどうか、確かめに来たんや。我ながら暇人やな」 「え?」 「自覚無しか。ウチのテニス部員、二百人からおるんやで。要するに、アンタの顔知ってる生徒がそんだけおるっちゅうことや」 「ああ…」
なるほど、と納得すると同時に、手塚は少し気恥ずかしさを覚えた。 こんなところでもたもたしている『青学の手塚』は、氷帝学園テニス部の生徒達に、さぞ奇異なものとして映っただろう。
「ほんで、何しに来たん」 「ああ、ちょうど良かった。すまないが、ひとつ頼んでもいいか」 「内容によるで」 「これを…」
手塚は、鞄の中から、跡部の傘を取り出した。
「これを、跡部に、返してもらえないか」 「跡部に?」 「このあいだ外で借りたんだが、俺は跡部の家を知らないから」
直接返さなくて、跡部は怒るかもしれない。 いや、きっと、怒るだろう。 そうとわかっていながら、人に頼もうとしている事を、手塚は少なからず情けなく思ったが、それでも、手塚は氷帝学園に入って行くだけの勇気が持てなかった。
跡部の世界に、入って行く勇気が、持てない。
忍足は、手塚と傘を交互に何度か見て、そして頷いた。
「はーん…なるほど、そういう事か」 「何だ」 「こっちの事や。ま、そんなおつかいくらい、頼まれたってもええんやけど…」
側を通り過ぎる男子生徒が、忍足に向かってサヨウナラと声をかけ、会釈する。 テニス部の後輩なのだろう、一緒にいる手塚を見て、少し不思議そうな顔をした。 忍足は鷹揚に挨拶を返すと、再び手塚の方を見た。
「…でも、そんなことしたら、俺が跡部に怒られるよってな」 「なんで、お前が怒られるんだ」
怒られるのは、自分だ。
だが、忍足は手塚の質問には答えず、意味ありげに、にやりと笑った。
「まあまあ。そのかわり、跡部をここに呼んだるわ。それならええやろ」 「え?」 「大丈夫や、まだ教室におったから。アイツ、最近用もないのにいつまでもガッコに残っとるなー思っとったら、そういう事やっ……痛!」
忍足は、急に、前につんのめった。 そして、
「何ベラベラとくだらねえ事しゃべってんだ、てめえ」 「跡部…」
忍足の後ろに、いつの間にか跡部が立っていた。 左の脇に鞄を挟み、右手で拳を作っている。 殴られた頭をさすり、忍足は眼鏡の奥から恨みがましく跡部を睨んだ。
「力一杯殴りよったな…ヒドイ奴や。お前、死んだら地獄に落ちるで」 「だからなんだ。死んだ後どうなろうが、そんなの俺が知った事か。いいから、失せろ」 「あー、わかったわかった。ほんならそういう事でな、手塚」
苦笑しつつ、軽く手塚に向かって手をあげて、忍足は校内に消えた。 忍足の後ろ姿を見送って、跡部は舌打ちをした。 明らかに不機嫌だった。
「あの野郎」 「……」
跡部は、手塚の方へ向き直った。 まだ、その顔は不機嫌だ。
「大体お前、こんなとこで何してんだ。用があるなら、入ってくりゃいいじゃねえか」 「そうはいかないだろう。他所の学校に、勝手に入れるか」 「マジで言ってんのか、それ」
手塚の言葉は嘘ではないが、本心でもない。 跡部は聡い。自分の弱さなんて、簡単に見破られてしまうのではないか。
だが跡部は、素直に呆れた、という顔をした。 そして、しょうがねえやつだな、と、笑った。 手塚は、気付かれなかった事を意外に思うばかりで、 その、跡部の笑顔の裏に隠された思いを、読み取れなかった。
「跡部、これ…」 「…ああ」 「ありがとう」 「ああ」
傘を受け取った跡部は、それきり何も言わなかった。 ただ、とても満足そうだった。 手塚は、ようやく安心した。
「お前、あれから大丈夫だったのか」 「だから言ったろ、俺はあれくらいの雨で、いつも傘はささねえんだよ。平気だ」 「そうか。なら、いいんだ」
跡部は手塚の顔をしばらく黙って見ていたが、やがて、言った。
「お前几帳面だな。わざわざこんな綺麗にたたまなくてもいいのによ」 「…それは…」 「なんだ」 「いや、なんでもない」
本当は使わなかったのだと。 帰ってから、一度、部屋で広げてみて、そのあと元通りに丁寧にたたんで、 ずっと鞄の中に入れてあったのだと、
手塚は、言わなかった。
「跡部」 「ん」 「お前、この傘、あまり使わないのか?」 「さあ、二回くらいは使ったんじゃねえか。それが、どうした」 「勿体無いな」 「あぁ?」 「こっちの、話だ」
灰色に煙る雨の中で跡部がこれをさして歩いたら、 きっと青い花が咲いたように美しいのに。
手塚は、軽く目を伏せて、笑った。
「なんだよ…気持ち悪いやつだな」 「いや、とにかく、ありがとう。それじゃあ」 「待てよ、手塚」
立ち去ろうとした手塚の腕を、跡部は捕まえた。
「お前、これから暇か」 「特に用は無いが…」 「じゃあ、俺に付き合え」
跡部は、呆れる程、自分勝手で強引だ。 でも、そうやって、彼の世界に、入れてくれようとする。 それが、跡部なりの優しさなのだと、手塚は知っている。 そして、自分はそれに甘えているのだという事も。
「……」 「なんだよ。嫌なのか」 「そういうわけじゃないが」 「じゃあ、なんだよ。ああ…」
跡部は、ニヤと笑って身を屈め、手塚の顔を、ななめ下から覗き込んだ。
「…今度は、してやろうか?」
すかさず飛んできた手塚の手を軽く躱して、跡部は笑いながら歩き出した。 手塚がついて来るのを、疑いもしないといった様子で、手塚は少し悔しいと思う。 跡部の白い手が、青い傘を鞄に仕舞うのを見つめながら、
手塚は、
今ここで雨が降ればいい、と、強く願った。
END 「犯行声明文」の中の跡塚、『雨に咲く青い花』の続きとして書いたものです。 コピー本にして、犯行〜を買って下さった方におまけとして 無理矢理押し付けていたんですが(…) いつも途中で切れて結局半分くらいしか渡せなかったので、 こちらに掲載してみました。 これだけ読むと多分わけわかんないと思います…が…。 ちなみに犯行〜は、お陰さまで完売しています。ありがとうございました。 |